今年も残すところあと数日。
クリスマスに大晦日、年が明ければお正月という、お坊さんでなくとも皆時間に追われて大忙しの年の瀬である。
ところで、ふとした疑問だが、この「時間」とは一体何だろうか。
早く終わってほしい、ずっと続いてほしい、そんな様々な想いが錯綜するこの季節に、その根底を流れる「時間」という概念について少し考えを巡らせてみたい。
【時間の存在】
ふと時計に目をやると、秒針が動いており、スマホの画面にはデジタルで現在の時刻が表示されている。
これだけで時間の存在は疑いようもなく思えてくる。
しかし、考えてみると、時計は時間を刻んでいるわけではない。
不思議だと思うかもしれないが、時計の針は歯車が電池から動力を取り出して動いているのであり、スマホの画面も一定のリズムで表示する数字を変化させているだけである。
つまり、時間そのものが動力となって、それらに作用しているのではない。
【原因と結果】
僕たちは、木になったリンゴが枝から離れると、次の瞬間には地面に落ちることを知っている。
しかし、それとて地球の重力という力の作用の証明であって、時間が何らかの関与をしているわけではない。
リンゴが木になっていた過去と、地面に落ちる未来、つまり原因と結果のように錯覚するが、物理学ではそれらを原因とも結果とも捉えない。
リンゴが存在する、重力が作用する、それだけのことで、両者にある一方向の流れを与えているのは、時間ではなく、人間の認識である。
人の動体視力は微小な時間断面を捉えることができないため、リンゴが枝を離れた瞬間と地面に落ちた瞬間以外は、一連の流れに見えてしまうのだ。
【時制の曖昧さ】
例えば僕が光の速さで 4年、つまり 4光年離れた星に降り立って、あなたの姿を望遠鏡で覗いたとする。
僕が見るあなたの姿は 4年前のあなただが、僕が望遠鏡を覗いている動作そのものは、僕にとって現在である。
一方、僕のこの動作をあなたが地球から望遠鏡で覗くとすると、僕を覗いているのは 4年後のあなたである。
この状況を俯瞰するとおかしなことが起きている。
僕を起点にした時間軸で言えば、僕が覗いたあなたは 4年前のあなた、僕を覗くあなたは 4年後のあなたである。
つまり、僕が望遠鏡を覗く時、過去のあなたと未来のあなたが同時に関係していることになるのだ。
ここから言えるのは、いま僕たちが「現在」と認識している時間も、広大なスケールにズームアウトしてみれば、誰かにとっての過去であり、未来でもあるということだろう。
別の言い方をすれば、僕たちが「現在」という時間を共有できるのは、距離の影響を無視できる関係の中で思考しているに過ぎないからであり、つまり、過去と未来が存在するのは認識の枠組みの中だけだということがわかる。
【時間の概念と社会構造】
ここまで、時間は自然界の産物ではないことを確認してきたが、それではなぜ僕たちは時間の概念から逃れられないのだろうか。
ひとつには、公共の秩序を維持する目的で、幼少の頃から「原因と結果」の関係を教育の中で刷り込まれてきた側面が考えられる。
ときに、子どもは怒られたり、泣いたりした時、大人からその「原因」を言い聞かされることがある。
ある原因が特定の結果をもたらす、悪い結果には必ず悪い原因がある、そのような因果関係の刷り込みから、子どもの頭の中には過去と未来の概念が形成されていき、成長するにつれ、社会に悪い結果(未来)をもたすような原因(過去)を作らぬよう、現在の自分を律することを覚えさせられる。
因果応報、信賞必罰(※1)といった観念は多かれ少なかれ誰もが有する認識の枠組みであり、キリスト教をはじめとする伝統的な宗教においても、信じる者は救われる、善行を続ければ天国へ行けるなど、過去と未来の合理的な関係が論じられている。
【時間との付き合い方】
ここまで時間の存在について考察してきたが、僕個人としては、過去や未来が存在するか否かは大した問題ではないと考えている。
というのも、時間からの完全な解放が必ずしも個人の幸せに直結するとは考えていないからだ。
時間という刺激は様々な形で人の心を揺さぶり、時には人を死に陥れ、また時には人を大きく成長させる。
そんな、人の幻想の域を超えて膨らんでしまった概念との付き合い方としては、少し遠くから眺めるくらいがちょうどよいのではないだろうか。
年を以て巨人としたり歩み去る
高浜虚子(※2)の句である。
この年末という時期、ゆく年の巨人とくる年の巨人がそれぞれ背中を向けて歩み去っていく姿を想像すると、自身の卑小さを痛感すると同時に、少し肩の力が抜けるのではないだろうか。
時間の存在を前提として思考する一方、「時間など存在しない」という認識を持ってみると、少しだけ認識の枠組みから自由になれる。
過去も未来もないこの世界で、果たして眼前の問題は本当に解決すべき問題なのだろうか。
この年末という時期、忙しさの原因と考えている問題も、実はあなたの認識が生んだ幻想ではないだろうか。
※1 信賞必罰:功績のあった人には必ず賞を与えてほめ、罪を犯した者に対しては必ず罰を与えるということ。出典は『韓非子(かんぴし)』。
※2 高浜虚子:明治から昭和にかけて活動した日本の俳人・小説家。1954年に俳人として初めて文化勲章を受賞。
おさかな
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