2026.10.19
またそこにある
スナックの棚に並ぶボトルが好きだ。同じ銘柄が何本もあるのに、首にかかった名札と中身の減り具合で、一本ずつ様子が違う。大きな字で名前を書いたものもあれば、隅のほうに遠慮がちに書いたものもある。誰のものでもなかったボトルが、名前をつけられて、そこで暮らしている。
よく飲み歩く友人と、旅先でボトルを入れることがある。面白いと思うものが似ていて、二人で飲んでいると妙なことでおかしくなる。こんな遠くまで来てする話かと思うようなことを、いつまでも話している。そうしてすっかり楽しくなると、その店でボトルを一本入れる。明日にはこの町を離れる。次に来る日も決まっていない。それでも名前を書いて棚に置いてもらうと、もう一度この店へ来るのが当たり前のような気になる。
もっとも、その当たり前はなかなか実現しない。入れたきりになっている店も多い。あそこにもある、ここにもあると言いながら、また違う土地へ出かけてはボトルを入れる。僕らの「また来ます」は、ずいぶんあちこちに置きっぱなしである。それなのに、入れなければよかったとは思わない。あの晩、その店が好きになったことには間違いがない。ママさんやその場にいた人たちと、また飲みたい。そんな気持ちで名前を書いたのだ。先のことまで確かめていたら、僕の名前のついたボトルはずっと少なかっただろう。
春に入れたボトルが、秋になっても残っていることがある。久しぶりにその店へ行って、棚から出してもらう。まだあったんだ、と嬉しくなる。自分で置いていったものなのに、見つけてもらったような気にもなる。僕がその店を忘れていた日にも、ボトルはそこにあった。そんなことは当たり前なのだが、目の前に置かれると、その当たり前が妙に頼もしい。
一口飲めば、前に来た晩のことが少しよみがえってくる。何を話したかははっきりしないのに、笑ったときの勢いだけが戻ってくることもある。同じボトルでも、一緒に飲む人が違えば、交わす話も違う。また笑って、また酒が注がれる。ボトルの中身は少しずつ減り、一緒に飲んだ人たちとの思い出は少しずつ増えていく。
僕がボトルを入れてきた店は、初めから目的地だったわけではない。たまたまそこで飲んで、人に出会って、帰りがたくなったのだ。そういう場所が、あとから僕の行き先になる。よく、人生にははっきりした目標を持ったほうがよいと言われる。子どもが「将来はお医者さんになりたい」などと言うと、「しっかりしているね」と褒められたりする。どこへ向かっているのか、そこへ行ってどうするのか。たしかに、未来について考えておくことは大事なのだろう。
けれど、予定と違うところへ来たなら、そこで少し腰を落ち着けるのもいい。せっかく目の前に人がいるのだから、まずは話しかけてみて、気が合えば一緒に飲んでみるのもいい。しまいには、その人に会えたのだから、ここへ来てよかったなどと思うかもしれない。自分の選んだ道を立派に説明することより、僕にはそちらのほうが切実なのだと思う。もっとも、これを人生観などと呼ぶと、ただ飲み歩いていることにうまい理屈をつけたようでもある。
縁を大切にしていると胸を張れるほど、まめに顔を出しているわけでもない。思い出しては、行きたいなあと言うばかりの店がいくつもある。ボトルにも、それを預かってくれている人にも、なかなか勝手な客である。それでも、もう一度あの戸を開けて続きを飲みたい。前と同じ晩にはならないだろうが、そこでまた笑えたらいい。
次はいつあの店で飲むのだろう。その頃の僕らがどこに住んで何を面白がっているか、今はまだ知らない。が、そんなことはその時考えればいい。ともかく、あの店にはまたボトルがある。
おさかな