2008.06.02
スタグフレーションの危機を乗り切る経済政策
物価が継続的に上昇する事象を、経済学用語で「インフレーション」という。
通常、インフレーションは経済拡張期、すなわち好景気の状態で発生する。モノがよく売れて品薄になるために価格が上昇することで発生し、結果として企業の業績は向上し、給与所得は増大する。物価が上昇するということは、同じ額のカネで購入できるモノが減る、という意味において、貨幣価値が減少する状態でもある。貨幣価値の減少は、支払金利の実質的な目減りにより借金の返済がしやすくなる要因となり、借金の返済負担の軽減は企業に設備投資を促す要因になる。このことから、世界の多くの中央銀行で、緩やかなインフレーションの継続によって経済の安定的な成長を図ることを目的として、物価上昇率の目標を設定するインフレターゲットを導入している。
しかし、インフレーションは良いことばかりではない。世界では今、原油価格や石炭、鉄鉱石などの原料価格の上昇により、ガソリンや食料品等の生活必需品の価格が上昇する傾向にある。さらに、米国のサブプライムローン問題の影響で、不動産投資市場から行き場を失った多額の投資資金が商品市場に流入することにより、原油や穀物などの商品価格に更なる上昇圧力をかけている。原油・原料価格の上昇により、一般商材の価格が上昇している先進諸国の状態は、典型的なコストプッシュインフレ(生産コストの上昇から起こるインフレーション)である。一方で新興国においては、飛躍的な経済成長の過程で需要が増え、供給が追い付かないディマンドプルインフレが発生している。
世界的なインフレーションの波は、日本の家計をも直撃している。現在の日本では、原油価格や食料品などの生活必需品において急激な物価上昇が続いている。これまでは生産コストの増加分を企業努力で回避してきたが、次第に企業の収益を圧迫し、商品価格に転嫁せざるを得なくなってきているのだ。ここ数年、企業収益が拡大していた局面であっても家計の所得が伸び悩む「実感なき経済回復」が続いていた。この上に企業収益が悪化すると、日本経済は経済縮小傾向に入り、その中で物価の上昇が継続する「スタグフレーション」に陥ってしまう可能性がある。「スタグフレーション」とは、景気後退とインフレーションが同時に発生している状態を指す。スタグフレーションの怖さは、経済縮小傾向の中で、企業収益の悪化が国民の給与所得に跳ね返り、物価の上昇に対して所得が伸び悩むため、家計が苦しくなっていくことにある。とりわけ、現在進行している物価上昇の多くは、ガソリンや食料品などの生活に根付いた商品の価格に直結することから、家計負担への影響は大きい。さらにスタグフレーションが進行すると、所得が増えないまま物価が上昇し続けるため、通貨価値が暴落し、需要はより一層落ち込んでいく。通貨価値の下落は、預金・現金などの資産価値を目減りさせ、金融不安が生じる。また、通貨価値が下がることで、海外からの資源に頼っている日本ではさらに原材料価格の上昇を余儀なくされ、ハイパーインフレーションに陥る可能性も出てくる。ハイパーインフレーションで記憶に新しい実例は、アルゼンチンの財政破綻であろう。このとき、アルゼンチンでは通貨価値の下落によって輸入量が減少し、国内の物資が不足するとともに、インフレ抑制のための預金封鎖によって国民はその資産を実質的に失うこととなった。こうした事態に陥らないためにも、日本がスタグフレーションに突入しないよう、慎重な経済政策運営が必要となる。
通常、インフレーションが加速すると、政府・中央銀行は財政支出の削減、増税などの財政政策や、政策金利の引き上げなどの金融政策によって市中に流通する通貨量を減らし、需要を抑制することで物価の上昇を抑える。一方、経済縮小期においては、市中の通貨量を増やして経済活動を活発化させるために、政府による財政支出の増加、減税などの財政政策や、中央銀行による預金準備率引き下げ、政策金利の引き下げなどの金融政策を執る。しかし、スタグフレーションが発生している状態では、2つの背反する現象が同時に発生しているため、どちらの政策をとっても不十分になってしまう。加えて、現在のインフレーションの傾向は、国外からのコストプッシュ要因が大きく、日本国内において経済政策として消費を抑制する施策をとったとしても、物価上昇に対する効果は見込めない。日本経済が直面しているスタグフレーションの危機に対応するための経済政策はどうあるべきなのか。
世界的な原油価格や穀物価格の上昇傾向は明らかだが、日本の消費者物価指数は、最新の数値で1.0~1.5%程度で推移している。先に述べたインフレターゲットの目標数値の多くが2%前後であることを鑑みると、決して現在の物価上昇傾向は行き過ぎとは言えない。もちろんこれは、企業努力による価格安定効果が強く働いている結果といえる。むしろ懸念すべきは、コスト増大が企業収益を悪化させ、雇用者の所得や設備投資に跳ね返ることで日本経済が縮小傾向に陥ることである。経済が縮小傾向にあるからといって預金準備率の引き下げや公開買いオペレーションなどの経済拡大政策を採用しても、コストプッシュインフの圧力に耐えている企業が多い現状で、給与所得の増大や設備投資にはつながりにくく、消費の拡大に対する効果が見込めるとは考えにくい。また、既に日銀の政策金利は現時点で0.75%と非常に低い水準で推移しており、さらにこの金利を下げたとしても、通貨量増大の効果はほとんど見込めない。経済政策の在り方としては、現状では効果の薄い財政政策による市中通貨量のコントロールではなく、企業努力を経済拡大につなげるために、企業の収益を下支えする、もしくは支援するような金融緩和政策を取るべきである。
本来、景気循環は自然な経済活動の結果であり、経済は拡大と縮小を繰り返していく。政府や中央銀行による政策的介入は、拡大と縮小の幅を狭めることによって国民の生活の安定を図る目的で実施するものである。しかしながら近年では、酒やタバコの増税など、財政政策の手段でもある税金操作が、政府の財政安定化の目的で実施される傾向にある。発泡酒などは、元来ビールにかかる酒税を回避するための企業努力の結果として生まれてきた製品であるにもかかわらず、1996年の酒税法改定で、税率をビールと同じ水準まで引き上げられている。更に、新たに開発された「第3のビール」も同じ道を歩んでいる。政府の財政事情が企業努力を無化しているのだ。
世界的なインフレーション懸念の高まりによって、国内企業は更なる企業努力を強いられるであろう。そのために収益の悪化、雇用の縮小などの悪影響が発生する可能性は大きい。しかし、現に小麦やトウモロコシを原料とするパンや乾麵は20年近くもの長期間、企業努力によって価格が据え置かれてきた。小売業界は、原材料価格の上昇を小売価格に転嫁しないための努力を続けている。デジタル製品や携帯電話などにおいても、インフレ懸念の局面で技術革新による価格下落を続けている。一時的に原材料価格上昇による企業収益の悪化が、経済縮小傾向をもたらすことは否めないとしても、政府・中央銀行は、経済政策の本来あるべき形として縮小期の金融緩和の実施や、減税を行い、企業のカネの融通を支援する役割に徹底すべきである。例えば、上場株式等申告分離課税の税率は、26%であったものが税率軽減によって10%まで下がっているが、これは特例的な措置であり、2008年12月には再び20%まで税率が上がってしまう。証券税制を更に緩和することによって、預金を金融市場に流通させ、市場の活動を活性化させることができるだろう。日本の個人が所有する金融資産は1400兆円とも言われている。その多くは預金資産だ。ハイブリッド車やバイオエタノールの開発など、民間企業の技術革新は様々な場面で起きている。その設備投資にかかる市中通貨量の増大を、財政支出や金融政策で賄うのではなく、税制緩和による個人金融資産の流入で補えば良い。金融が十分に活性化されている環境であれば、企業の収益は自助努力によって回復可能である。政府は、これらの自助努力に対し、発泡酒に対して行なったような増税などによって企業の利益追及を妨げてはならない。政府が行うべきは、自らの財政難を企業や消費者に転嫁しないための歳出削減を徹底することである。その上で、外部要因から受ける影響が大きく、自助努力だけでは経営難に陥ってしまう中小企業に対して、政府・中央銀行の政策がセーフガードとしての役割を果たすことができれば、経済縮小による家計の混乱を最小限に抑え、自律的に経済は再び拡大傾向へ反転していく。
政府の財政事情を持ち込んで、徒(いたずら)に企業の努力を無に帰すような経済政策はあってはならない。政府・中央銀行による市場への介入は、景気循環の振れ幅を極小化し、経済が安定的に拡大していくための政策介入だけであるべきである。
馥郁梅香