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2015.09.11

岩田聡氏の成功と企業の非財務的側面

 任天堂の社長を務めていた、岩田聡氏がこの世を去って2ヶ月が経つ。  岩田氏が優れた経営者であったことは、各所の追悼記事がそれを雄弁に物語っている。岩田氏の産み出したニンテンドーDSやWiiは、任天堂の年間売上高を兆円単位で押し上げ、彼の功績には称賛が尽きない。  しかし主要な追悼記事を見ても、経営者として岩田氏の魅力は、十分には書かれていないのではないかと筆者は感じる。様々な記録を振り返ると、岩田氏の成功は「社員」、「事業」、「顧客」について驚くほどに深く知り尽くしていたことに支えられているようだが、そこにスポットライトが当たっていないように思えるからだ。  今回は、まず岩田氏が「社員」、「事業」、「顧客」について、極めて深い理解をしていた事実を振り返る。その上で、岩田氏がこの3つを大切にすることで成功を得た理由を考えてみる。  まずは、岩田氏の略歴を紹介しておこう。  岩田氏は、東京工業大学在籍中、ハル研究所の発足と同時にアルバイトとして入社、そのまま開発担当の正社員として入社した。零細ベンチャーで上司も先輩もいない部署であった。  ハル研究所はその後、インハウスでソフトを開発することが課題であった任天堂のセカンドパーティーとなり、岩田氏は天才ゲームプログラマーとして名を馳せる。ところが、不動産事業などの多角化に手を出したハル研究所は、莫大な負債を抱え経営が立ち行かなくなり、民事再生を申し立ててしまう。  この時、任天堂の当時の社長であった山内溥氏は、当時32歳であった岩田氏をハル研究所の社長にすることを条件に、同社を支援するとした。  社員数が100に満たない企業が15億円の負債を抱えて再スタートを切るに当たり、岩田氏も一部負債を個人保証せざるを得ないまでに追い込まれた。前途は多難と見られていたが、彼が社長として最初に開発したソフト「星のカービィ」は500万本の売上を誇るなど、ハル研究所は次々とヒット商品を生み出し、8年と少しで経営再建を遂げ、事業規模の拡大にも成功した。 山内氏に功績を高く評価された岩田氏は、40歳にして任天堂の取締役に引き抜かれ、42歳で代表取締役社長に就任すると、ニンテンドーDSやWiiにより、これまでゲームに関心を持たない層の需要拡大に成功。2009年3月期の任天堂は、売上高1.8兆円、営業利益5,552億円に達する。社長就任時と比べ、売上は3倍超、利益は5倍近くに膨れ上がった。 近年の苦戦を考慮に入れても、多少の営業赤字にびくともしない財務体質は現在もゆるぎなく、同社において岩田氏の財務的貢献は大きい。 それでは、岩田氏が「社員」、「事業」、「顧客」を深く理解していたことを様々なエピソードから振り返ろう。  岩田氏は「社員」を知るために、社員の話をよく聞いた。ただ聞くにとどまらず、耳の「傾け方」が半端ではなかった。 ハル研究所の社長となった時、彼はまず、百人近い全社員との面談を行った。社員の不安を少しでも払拭して再建へ前向きになってもらうと同時に、一開発者から社長に変わり、事業全体を俯瞰するために必要であったからだ。 ところが、岩田氏は通り一遍の面談では終わらせず、半年ごとに全社員と繰り返し面談を続けた。7年近くの間、1名当たり数十分から3時間の面談で、ひたすら社員の言い分を聞き、様々な質問を重ねることで社員が主張しやすい環境を作り、社員との相互理解を徹底させた。これは、ハル研究所の社長退任時まで続き、任天堂の社長となってからも、部長クラスと直轄の部下を合わせて、約140人を対象に面談を行い続けていた。  このことにより、岩田氏はハル研究所の再生に向けて全社をひとつにまとめ上げただけでなく、任天堂の社長就任から4年足らずで、自身が掲げるビジョンを全社に浸透、定着させるに至らしめた(†1)。岩田氏にとって社員の話を訊くことは、社員に迎合することではなく、社員に社長自らが接することで学習の機会を与え、人と組織の成長を促し、組織をまとめることだったようだ。 次に「事業」に対する岩田氏の向き合い方を振り返ろう。岩田氏の自社事業への造詣の深さは、ゲームソフトの開発について知り尽くしていることを筆頭に、有名なエピソードがいくつもある。自社事業の専門知識を持たずに経営戦略立案や資源配分に特化する経営者も多い中、岩田氏のコンピューター・ゲームソフトに対する専門性は、業界のトップクラスであり続けた。  それを物語る代表的なエピソードがある。岩田氏が任天堂の取締役時代、あるビッグタイトルゲームソフトの開発が遅れ、このままでは発売日に間に合わない事態となった。その際、取引先まで飛んで行って、エンジニアとしてデバッグのリーダーを務め、自らコードレビューまで行って発売日に間に合わせた。  問題プロジェクトにおいて、デバッグのコードレビューは極めて高い専門性が要求される。元SEに言わせれば、100人が数か月で行う仕事を、たった一人が短期間で成し遂げる天才タイプに他ならないのだそうだ。  岩田氏は、当時は任天堂の取締役経営企画担当室長であった。ゲームはおろかソフトウェア開発において、経営企画担当取締役ながら、ここまで自社中核事業を知り尽くしている人を、筆者は他に聞いたことがない。  このことは、岩田氏自身が

日本で一番プログラムのことが分かっている上場企業の社長という地位は,まだ捨てたくない †2
と亡くなる半年前に述べていることからもよくわかる。  岩田氏は、ゲームソフトのプログラミング以外の業務でも多岐に渡る経験を持つ。  岩田氏はハル研究所入社当時から任天堂の社長在籍時に至るまで、営業から広報まで、自ら多くの業務をこなした。たとえば、ハル研究所が任天堂という販路を獲得したのは、当時24歳であった岩田が自ら足を運んだからである。岩田氏はデータを用いた説明が上手く、広報の先頭に立つことでも有名だ。ハル研究所時代には債権者との債務整理交渉に立ち、不採算事業からの撤退を決めるなど、経営に関する知識にも事欠かなかった。  最後に、岩田氏の「顧客」への向き合い方を振り返る。  岩田氏は、どのような要求も実現することをモットーとしたプログラマーであったが、「ゲームを豪華に、そして高度で複雑なものとするだけでは、ゲーム熟練者(ヘビーゲーマー・コアゲーマー)に飽きられ、今までゲームに触ったことのない初心者にもとっつきにくいものになり、市場がゆっくりと死んでしまうのではないか」という考えを持っていた(†1)。  2000年代初頭のゲーム業界は、こぞって性能競争を繰り広げていたが、岩田氏は「顧客層を広げるために何をするか」を考え続けた。その結果、この時代の任天堂は大ヒット商品を次々に産みだす。  たとえば、ニンテンドーDSの「脳を鍛える大人のDSトレーニング(通称:脳トレ)」は、岩田氏自らが産みだしたコンセプトだった。競合が高精細グラフィックスの美しさを競う最中に、岩田氏はニンテンドーDSを中心に家族団欒の時を生ませることを画策した。  Wiiの爆発的ヒットは、操作の斬新性や魅力あるソフトに支えられた面が大きいが、「省エネ、小型で音が静か」という、家庭内でゲームが嫌われないということも大変重視した。これまで、子供がゲームに熱中する様に苦虫を噛み潰していた主婦層は、Wii Fitでヨガのプログラムを楽しむようになった。  岩田氏は自らが作成したゲームを周囲に楽しんでもらうことが、高校生の頃から好きでたまらなかったという。周囲を喜ばせるために、常に工夫を惜しまない姿勢こそ、後年のゲーム人口拡大戦略の成功を支えたのだろう。新しい発想でユーザー層を広げた彼の姿勢は、「市場のパイを拡大する」という、経営者が最も習うべきものだった。それらは、ゲーム業界の将来に危機を感じ、徹底して顧客に向き合うことを重ねたから成し得たものだ。  社長という職にありながら、自らが顧客の目線で考えることを徹底することで、これまでゲームに関心の低かった主婦やシニアの取り込みを通じ、任天堂は独り勝ちの時代を築くこととなる。 このように、岩田氏は「社員」、「事業」、「顧客」に対し、極めて深く向き合った社長ということができそうだ。最後に、この3つを大切にした岩田氏が成功した理由を、経営学的に考察してみたい。 「社員」、「事業」、「顧客」のような企業における「非財務的」な側面は、過去には業績評価が困難とされた時代もあったが、1990年代以降はR.S. KaplanとD.P. Nortonが考案したバランスト・スコアカードで評価されるようになった。バランスト・スコアカードとは、「財務」、「顧客」、「ビジネス(業務)プロセス」、「(人と組織の)学習と成長」の4つの視点から、企業における非財務的指標を評価しようとする考え方である。 これによれば、企業の主要な戦略課題(経営戦略における部分的な戦略)を、4つの視点によって分類し、各種戦略の因果関係に着目して、企業の財務的指標に対する影響を考えることができる。厳密な因果関係は、戦略課題同士で個別に考慮する必要があるが、大まかにいえば、企業は組織に属する人の「学習と成長」から始まり、人がもたらす「ビジネス(業務)プロセス」を経て「顧客」に提供する価値の増大を通じて向上することが、財務的指標の向上を支える、というものである。 この理論に基づけば、岩田氏の成功を説明することができるのではないだろうか。なぜなら、岩田氏が大切にした3つの要素はバランスト・スコアカードにおける「学習と成長」、「ビジネスプロセス」、「顧客」に他ならず、それぞれの要因がポジティブに寄与することにより、財務指標が向上するということができるからである(「社員」については、面談を繰り返すことで、自身のビジョンを短期間で全社に浸透させたことで、組織の「学習と成長」を促したことは前述の通りである)。もうひとつの視点である「財務」も、岩田氏はハル研究所の債務整理を通じて知り尽くしていた。  しかし、これだけでは成功の説明としては十分ではない。バランスト・スコアカードを用いる場合、それぞれの視点における戦略、KPIやPDは、適切な因果関係で結合されなければならない。岩田氏が4つの視点で見えてくる経営上の問題について、因果関係を適切に整理することができていたことを示すことが、彼の成功をこのモデルで説明するために必要となってくる。実はこの点も、随所で語られる岩田氏のエピソードから説明できる。  例えば岩田氏は、プログラミングの習得が仮説構築力を含めた論理的思考力を高めたということを、随所で語っている。この2つがあれば、経営に関する事項の因果関係を適切に見抜く能力も高かったと考えることができる。たとえば、複雑な問題を解決に向かわせる場面については、
「問題を単純化してほぐすことには、プログラムの経験っていうのがものすごい役に立っているんです」†3
と述べている。亡くなる半年前の対談もヒントになる。岩田氏は1970年代にプログラムを始めている。この時代、アマチュアプログラマー向けにマニュアルは存在せず、彼は機械語を暗号解読しながら技術を習得した。この経験を岩田氏は、
「仮説構築力」を鍛えるのに,あんないい訓練はなかったですよ。あれ,いわば「大リーグボール養成ギプス」みたいなもので(笑) †2
と振り返っている。  事実、岩田氏の様々な経営判断は結果的に理に適っていた。技術のロードマップを外してでも顧客ニーズに回帰したことは、シネティクス法の中でパーソナル・アナロジーをゼロベース思考に基づき活用できなければ、不可能に近いほど困難であった。社長自らが部下を介さずコミュニケーションを行ったことも、7Sの観点から改革が容易でないとされる「Staff」と「Style」を正しき方向に導くためにリソースを費やすべきだという事実を、VRIO分析で見極めたのかもしれない。  実際にそうした分析を本人が行ったかは、既に知る術もないが、彼の思考力は非常に合理的な結論を導き出し得ており、論理的思考力が極めて高くなければ、任天堂の黄金期は偶然以外に説明がつかなくなる。岩田氏のアウトプットを見れば、物事の因果を論理的に整理する彼の能力は、非常に高いと判断すべきである。  ここまでの実績が揃っていれば、岩田氏はバランスト・スコアカードの4つの視点に属する戦略課題やKPI等を、因果関係に基づき適切に結合させることができていたと考える方が自然である。  岩田氏は「社員」、「事業」、「顧客」に向き合うことを徹底していたこと、それらを確実に紡ぎ合わせる論理的思考力が極めて高かったからこそ、ハル研究所と任天堂の成功はあった。彼はゲーム開発が好きで事業に向き合い、自分の創作したものを楽しんでもらいたくて顧客に向き合い、会社倒産の憂い目に遭って社員に向き合った。そして、プログラムを通じて論理的思考力を養い、倒産処理で財務と向き合った。  岩田氏は、経営において「非財務的な側面」を重視することで成功を遂げた。岩田氏のエピソードが輝くのは、世の経営者に、こうした側面に注力する人が少ないからではなかろうか。  奇特な経営者のあまりに早い死に、改めて哀悼の意を捧げたい。 †1:任天堂“驚き”を生む方程式(井上理著、日本経済新聞出版社) †2:ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!(4Gamer.net、Aetas株式会社) †3:ほぼ日刊イトイ新聞(糸井重里著、株式会社東京糸井重里事務所) 参考書籍: バランスト・スコアカードの実践ツール「ストラテジー・マップ」  R.S. Kaplan and D.P. Norton (Diamond Harvard Business Review 2001) バランスト・スコアカードによる戦略実行のプレミアム  R.S. Kaplan and D.P. Norton(2009) フレームワーク図鑑  永井豊志(2015)
Zarathustra II.

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