2025.06.09
終身雇用の復活?
終身雇用と企業内組合と年功序列は、かつて日本を象徴する人事制度として、三種の神器と呼ばれていた。このうち年功序列と終身雇用は、バブル経済が崩壊した90年代に、日本企業を弱体化させた悪しき制度として批判の的となった。
このうち年功序列は、成果主義という対立概念が打ち出されると、人為的な廃止が進んでいった。今では古いしきたりを色濃く残す特定の団体を除けば、その名を聞くことも少なくなり、それと同時に、対立概念として打ち出された成果主義という言葉も聞かなくなった。最近の景色はと言えば、ジョブ一色だ。余談になるが、年功序列とは積み重ねてきた成果に報いる概念で、成果主義の完成形であると私は思う。
一方で終身雇用は、高齢社会が進展し人の寿命が長くなるなかで事実上その意味をなさなくなってきた。企業は次々と定年を延長しているが、それでも追いつかないほどに、人は長生きをするようになった。そのため多くの高齢者は、退職金や年金だけでは賄いきれない人生のために、新しい収入の道を模索することが強いられている。それもあって最近では、リスキリングが必要だとする声も喧しい。高齢社会が進展するなかで、日本の企業は若い労働力の減少という、もう一つの現象にも直面している。ならばと、定年退職した高齢者を再雇用する動きも目立ってきた。それは終身雇用の進化系のようにも思えてくる。最近では、メンバーシップ制という新しい名前をもらい、終身雇用の在り方を見直す動きもあるらしい。人為的な廃止が進んできた年功序列とは違って終身雇用は、人の生物的な変化や人生観の中で揺らいでいる。
その終身雇用だが、起源は江戸時代の奉公人制度にあると私は見ている。江戸時代の後期になると商業の発展に伴って人材確保の必要性が高まった。そこで生まれたのが奉公人制度だ。農村部の貧しい家は、子供を都市部の大店に丁稚として奉公に出す。丁稚には給金の代わりに寝食が与えられ、読み書きにそろばん、道徳に商いのいろはが教育される。居候式の教育制度だ。やがて丁稚は手代となり番頭となる。暖簾に対する深い愛着心を持つ優秀な番頭には、暖簾分けという名の報酬がある。そうして新しくつくられた店は、親族や郷里の若い労委動力をまた丁稚として向かい入れて教育をする。この教育制度こそが年功序列の土台ではあるまいか。ちなみに、確かな成果を上げ続けることを年功といい、年功に応じた処遇を年功序列という。年齢の序列ではない。そこには自発的な隠居の道はあるものの、人工的な定年という概念はない。同じ時代につくられた職人の組合組織としての仲間は、企業内組合となった。明治期になると奉公人制度は社員制度へと発展し、技術の高度化と従業員定着率の悪化対策として、養成工制度による技術者の養成が盛んになるが、これは戦後、企業内学校制度へと発展する。企業そのものが学び舎であるという概念は、世界でもあまり類を見ない。終身雇用せねばという責任感が根幹にある。
終身雇用が生まれた背景には、様々な社会問題があり、手放しに賛美するつもりはないが、今この時代に改めて研究すべき要素は多い。終身雇用には、社会と一体化したある種の持続可能性が感じられる。今日多くの企業が希求するコミットメントなるものが、自然に醸成される可能性もある。翻って、戦後からの雇用制度を見直すと、大卒を一括で採用する方法には、ある種の違和感がつきまとう。
人は0歳から6歳までの間に、社会で成功するための基本的な能力を確立すると言われている。6歳までと言えばプレスクールの段階であり、家庭の教育が重要になるのだが、このことは膨大な予算とサンプルを投じた米国の研究論文が証明している。0歳から6歳で培った能力を体験的に試しながら実践力に高めていく段階が6歳から12歳の間となる。この期間は今の小学生にあたり、江戸時代の丁稚奉公をする年齢にあたる。次に12歳から18歳までは、社会的なアイデンティティの確立期となる。この時期は大人になるための学習期間であり、様々な大人と交わることが大切とされている。年齢でみるとちょうど元服の時期にあたり、なるほどと思わせられる。この社会的なアイデンティティの確立期だが、相当なエネルギーを要するため、しっかりと向き合えば精神的な疲労は著しく、18歳からしばらくは、モラトリアムとかスチューデントアパシーといった状態になる。つまり、余計なことに悩まされず専門知識を詰め込むには格好の時期となり、ここがちょうど大学での就学期間に合致する。
日本の雇用制度に話を戻す。日本では、社会的なアイデンティティの確立期に、多くの子供たちは少しでも偏差値の高い大学への進学を目指すことになる。関わる大人は学校や塾の教師や、教育をお金で買う親だけで、著しく偏っている。中高生は大人になるための社会的な学習を後回しにし、受験勉強に時間を費やす。体力的にも精神的にも疲れるだろうが、発達という意味では健全な疲れ方ではない。そのため、大学に進学した学生は、本能のなせることか、社会での遊びに夢中になる者も多い。しかしそれも束の間のこと、すぐに就職活動に追いやられ、専門知識を詰め込むこともままならない。そのため企業は、採用した後に、専門的な知識を学ばせるための膨大な投資を強いられている。大人になるための学習は本人任せだが、それもまたままならず、業務という名のパソコンの中の世界に閉じこめられる。そこに、生き物としての健全性は見出しにくい。
ここからは私案である。企業はまず、社員が子供の教育にもっと時間を投じることができるようにしてほしい。パパ活なる制度もようやく普及し始めたが、それでは足りない。学校はあくまでも第二の学び舎であり、第一の学び舎は家庭であるべきだ。寝食つきで、国語に算数という考える力の土台を育み、社会に理科で社会の道理と論理思考の土台を育む。家庭内での丁稚奉公だ。足りない知識は学校で補完する。企業は社員に、そのための時間を社会への投資として提供する。
企業は、中高の教育現場に多様な大人たちを送り込んでほしい。送り込まれた社員には、中高生たちが社会を知る機会をつくり、現実感があり目的意識をもって進路を見出せるように導いてほしい。それが現代における元服となる。
企業は、大学への研究投資をしてほしい。できれば自社独自の学部を開設してほしい。そして、研究成果ごと学生を採用してほしい。それは企業の未来づくりにもなるし、研究資金に乏しい日本の大学の助けにもなる。日本の大学は先進国の中でも情けなくなるほどお金がない。
企業は、50代の社員に、未来に繋がる研究テーマを与えてほしい。そうして還暦を過ぎたころに、高校や大学に研究者として還元してほしい。
むろん、まずは体力のある大企業での話だ。しかし、そこから大きな大河をつくってほしい。大河がやがて多くの支流をつくるように、その流れを中小企業にまで届かせてほしい。日本の産業界の在り方の先駆けとなってほしい。その流れが、未来を拓くと夢想する。
方丈の庵