2025.12.08
先ず”提供価値”より始めよ -市場価値は提供価値から始まる-
私は以前転職エージェントとしてキャリア支援の仕事に携わっていた。その時から常にある違和感を抱いていた。それは、人材が労働という価値を提供する側であるにもかかわらず、あたかも消費者のように企業を”選ぶ対象”として扱い、自分が提供できる価値について話さず、得たい条件だけを語るケースが多いことである。この状態の問題は、“価値を提供する立場である”という自覚が希薄なまま、条件だけで企業を評価してしまう点にある。
採用活動・転職活動は本来、企業と人材双方が”選ぶ側”であり、同時に”選ばれる側”でもある。そのため、人材側は企業を選ぶ視点に加えて、企業に選ばれるための戦略(=自分の価値をどう提示するか)を持つ必要がある。しかし実際には、企業を”生活費を稼ぐ場所”や”自己実現の場所”とみなし、待遇・役職・勤務地などの条件ばかりを重視する傾向が強く、自分のスキルや経験の棚卸がおざなりになりがちだ。キャリア支援をする立場としては、人材と企業の最適なマッチングを実現するためにも、人材側に“提供価値”の視点を持ってキャリアを考えてもらうことの重要性を伝えていた。
希望条件という言葉を聞くと、多くの人材は自分が得たいものを無意識に連想するのだろうか。実際、希望条件として挙がるのは、年収・残業時間・働き方・福利厚生など、いずれも自分が受け取る側の項目が中心だ。一方で、”次の職場でどのような価値を提供したいか”という視点の希望が語られることは多くない。こうした傾向が生まれるのは、自分の労働がどのような価値を生むのかを日常的に意識しているかどうかの違いではないかと感じている。通常、モノやサービスを購入する場合、消費者が費用を払って利用する。しかし労働契約はその逆構造だ。人材は自らの労働という価値を提供し、その対価として賃金を得る。言い換えると、人材は“価値を提供する側”であり、企業はその価値を受け取る側である。
この構図を踏まえるならば、キャリアを考える際に”どこで働くか”や”何を得るか”ではなく、”どのような価値を提供できるか”を軸にすべきだ。こうした、”ビジネスパーソンとして提供価値を高めよう”という話をすると、市場価値と混同されることがしばしばある。市場価値とは“複数の企業から選ばれる状態”であり、その基盤となるのが提供価値だ。提供価値を高めれば顧客から評価され、それが積み重なることで労働市場でより良い待遇を得られるようになる。にもかかわらず、経験上、多くの人材は提供価値を考える前に市場価値だけを気にしがちである。
誤解しないでいただきたいが、いくら提供価値を高めようといっても、四六時中働くことを薦めているわけではない。現代は、自分の人生を自分で選べる時代であり、多様化しているライフスタイルを大事にすることも重要な考え方である。しかし、どれだけ時代が変わっても、就業時間中に求められる成果を出さなければならないという前提だけは変わっていないのだ。そして、成果を出すための努力を怠れば、業務の一部はAIやロボットでも代替可能になってしまう。つまり、“時間を増やして働け”ということではなく、“就業時間内で提供価値を最大化する努力が必要だ”ということを伝えたいのである。
一般的に働き方の議論は”ワークハードか、ワークライフバランスか”という二項対立の形を取ることが多い。これは、仕事に割く“量”や“時間”の話であり、提供価値の話とは別である。私の経験では、ワークライフバランスを重視する人材は、仕事量が少ない業務や難易度がそれほど高くない業務を希望する傾向があった。一方で、就業時間中はハードに成果を出しつつ、プライベートも大切にするという人材は驚くほど少数だ。しかし、本来のワークライフバランスとは”ワークを抑えてライフを取る”ことではない。ワークでは提供価値を高め、ライフでは幸福度を高める。その両方を同時に追及する姿勢こそが、本当の意味でのバランスでないか。
キャリア形成とは、壮大な計画を練ることでも、遠い未来の理想像を描くことでもなく、結局のところ”今日の仕事でどれだけ価値を生み出せたか”の積み重ねでしかない。未来のキャリアビジョンを考えることは確かに大切だ。しかし、ビジョンを描くだけでは市場価値は上がらず、提供価値を伴わないキャリア戦略は机上の空論に終わる。だからこそ、キャリアを考えるときは“ゴールから逆算する視点”と同時に、“今日の提供価値を最大化する視点”の両方を持つ必要がある。どちらか一方では不十分だ。また、提供価値の向上は、必ずしも劇的な成長や大きな成果を求めるものではない。日々の小さな改善、顧客の課題を深く理解しようとする姿勢、任された仕事の目的を自分なりに考え抜く習慣、それらの積み重ねが結果として市場に必要とされる人材を形づくる。提供価値とは特別なスキルだけを指すのではなく、”自分が関わる相手を前に進める力”の総体である。そして、その力こそが人材の魅力であり、企業が人を選ぶ際の本質的な判断材料になる。
提供価値の最大化の例として、トップセールスとして活躍するA氏をご紹介させていただきたい。A氏は、KGI・KPIの達成はもちろん、プラスアルファの取り組みにおいても高い成果を挙げている人物だ。成功要因を尋ねると、A氏は「特別なことはしていません。当たり前のことを当たり前にやっているだけです。」と答えた。しかし、A氏の当たり前を深掘りしていくと、そのレベルの高さが段違いであることが徐々にわかってきた。A氏は顧客への目配り・気配り・心配りのレベルが非常に高く、さらに新しいひらめきを臆さず言語化し、社内外を巻き込んでリーダーシップを発揮していたのだ。これらは単なる営業スキルではなく、顧客や組織を前進させる力そのものだった。
このことをフィードバックした際のA氏の表情は今でも忘れられない。無意識に発揮していた価値を言語化し意識下に落とし込むことで、採用面接で自信を持って話すことができる。また、日常業務においても、この意識があることによって行動の改善方法がより具体的にわかるようになってくる。このように自身の提供価値を言語化することは、提供価値の最大化の第一歩なのだ。
キャリアの軸を価値提供に置くことは、決して“仕事に人生を捧げよ”という意味ではない。むしろ、この視点を持つことで、限られた就業時間の中で集中して成果を出し、余白の時間をより自由に使えるようになる。この軸を持たない働き方は、時間をかけても成果につながりにくく、結果としてワークとライフのどちらも満たしにくい。反対に、提供価値を意識した働き方は、仕事の質を高めながら、ライフの質も向上させる。最終的に、キャリアは自分の価値観だけでなく、他者にどのような価値を届けたかによって形づくられる。
キャリアに迷ったときは、ぜひ自分自身に問いかけてみてほしい。「私は、誰に、どのような価値を提供できているだろうか」という問いに向き合う姿勢こそが、キャリアを前に進める最初の一歩となる。そして、その一歩の積み重ねが、自分が望む未来を手繰り寄せる力になる。
まつどん