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2026.03.23

勉強という名の自己破壊

入社から3カ月がたった。 住む場所、身に着けるもの、関わる人、発する言葉、見るもの触れるもの。すべてが変わった3カ月だった。日々学びの連続、勉強ばかりである。
 

「自分を変えたければ環境を変えろ」

自己啓発の分野でよく聞く言葉だ。

転職と引越し、未経験でのコンサル業務。
自分自身は、この3カ月で変わったのだろうか。
 

正直、自分が変わった実感はない。
 

ただ、ひとつだけ心当たりがある。先日、久しぶりに前職時代の友人と再会した。楽しみにしていたはずなのに、いざ会ってみると何か居心地が悪い。数カ月前までの「ノリ」、波長が合わなくなっている自分に気づいた。以前ならば何も考えずに乗れたはずのリズム、会話の話題に、自分だけがうまく乗れていない。相手が変わったわけではない。変わったのはおそらく自分の方だ。
何かを失いつつある感覚がある。
 

帰り道にふと、哲学者・千葉雅也さんの
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の一節を思い出した。

 

勉強とは、自己破壊である。[i]
 

「あぁ」と思った。友人との時間で感じたあの居心地の悪さは、気のせいではない。自分が変わりつつあるのだ。以前の自分に合わせた関係に馴染めなくなっている。勉強によって「何かを得た」のではなく、かつてのノリの中にいた自分が壊れかけているということだ。少しさみしい。しかし変化の過程にいるのだと思うと、それは嬉しくもあった。
 

もっとも、これは自分だけの話ではない。AIの台頭によって多くの仕事が変わると言われ、人生100年時代のなかでリスキリングやアンラーニングの重要性が叫ばれて久しい。変化に適応し続けることが、これからの時代を生きるうえで不可避になりつつある。


しかし現実には、日本の学び直しは進んでいない。内閣府の経済財政白書によれば、25〜64歳のうち大学等の教育機関で学び直しをしている人の割合はわずか2.4%。英国の16%、アメリカの14%、OECD平均の11%[ii]と比較して桁違いに低い。GDPに占める企業の能力開発費も0.10%にすぎず、米国2.08%、フランスの1.78%[iii]と比べても大幅に低い。

少なくとも制度としての学び直しと人材投資において、日本は先進国の中で際立って低い位置にいる。

なぜだろう。時間がない、費用がかかる。理由はいくらでも挙げられる。ただ、自分自身がまさに変化の渦中にいる人間として感じるのは、もっと根の深い抵抗があるということだ。そしてその抵抗は一枚岩ではない。層のように重なっている。

 

第一層 アイデンティティという囲い

浪人していた時期のことを思い出す。新卒で会社員にならなかった時期、個人で仕事をしていた時期のことも。どの時期にも共通して、強烈な不安に襲われた。肩書きがない、所属がない、「自分は何者なのか」がわからない。あの恐怖とふわふわとした地に足のつかない感覚は今でも覚えている。

 

あのとき欲しかったのは、スキルでも知識でもなく「自分はこういう人間だ」と言い切れる足場だった。それさえあれば、地面の上に立っていられる気がした。一度その足場を得ると、もう手放せなくなる。あの不安定な場所に戻りたくないからだ。やがてその足場は、自分を立たせるものから、自分を囲うものに変わっていく。
 

思えば、人が「自分はこういう人間だ」と定義するのは、多くの場合、自分を守るためだ。「自分はモテないタイプだ」と決めてしまえば、恋愛で傷つくリスクを回避できる。「自分は挑戦するタイプじゃない」と決めてしまえば、失敗の恐怖に触れなくていい。アイデンティティとは、自分を表現するものというよりも、痛みに近づかなくて済むように作った囲いだ。その囲いの中にいる限りは安全でいられる。
 

そして人は一度この囲いを作ると、それが正しいことを確認し続けようとする。心理学者ウィリアム・スワンはこれを「自己確認理論」と呼んだ。人は正しく評価されたいのではなく、自分が思っている通りに扱われたい生き物だという。たとえ肯定的な評価であっても、自己像と矛盾する情報には抵抗を覚える。「あなたは優秀ですね」と言われても、「自分は無能だ」と思っていれば居心地が悪くなる。
 

過去に友人から仕事を紹介されたことがあった。悪い話ではなかったはずだが、「それは自分じゃない」という感覚が先に立ち断った。内容の良し悪しではなく「自己像に合わない」というだけで体が拒否した。
 

冒頭で「何かを失いつつある感覚」と書いた。あの感覚の正体は、おそらくこれだ。アイデンティティという囲いが、壊れかけている痛み。

痛みから身を守るために作った囲いだからこそ、その囲いを壊す働きには全力で抵抗する。体が拒否反応を起こすのは、むしろ自然なことだ。



第二層 和を乱すことへの恐怖

ただ、アイデンティティの話だけでは「なぜ日本が特に学ばないのか」の説明にはならない。アイデンティティの防衛は人類の普遍的な心理だからだ。

日本は「和」を重んじる社会だ。しかしその裏側として、「ノリを合わせること」が暗黙の美徳として強く機能している。学校教育の段階から「みんなと同じようにできること」が評価され、集団のなかで突出することには居心地の悪さが伴う。勉強してノリが合わなくなった人間は、和を乱す存在になる。
 

転職した人間に「本当にその仕事できるの?」と声をかけ、新しいことを学び始めた人間に「急にどうしたの」と笑う。悪意はない。むしろ心配からくる言葉だ。しかしその善意の引力が変化の芽を摘む。
 

第一層のアイデンティティの囲いがブレーキをかけ、第二層の「和」がそれを強化する。日本においては、自己破壊のハードルが二重に積み重なっている。



第三層 冷笑の代償

変化を止める第三層は、もっと個人的な話だ。過去に自分が使った「言葉」と「姿勢」が足かせになる。
 

他人の挑戦を笑うというのは、コストがかからない。SNSによって何かに挑んでいる人間を遠くから眺めて評論することは簡単で、一瞬の優越感を与えてくれる。挑戦者の的外れな言動を笑ったとしても、ベッドの中からスマホ一台で眺めている構図にほかならない。笑われた側は行動を起こし、笑う側は寝転んだままだ。
 

しかし厄介なことに、新しいことを始めようとした瞬間、自分を止めるのはかつて人を笑った記憶だ。吐いた言葉が数年の歳月をかけて自分に返ってくる。

この構造に気づいてから、映画を含むあらゆるものへの評価、採点をやめた。評価によって一瞬の優位にひたり、結局そのままの自分で居続けることへのせめてもの抵抗だった。

 

自分を破壊するということ

第一層の囲いがブレーキをかけ、第二層のノリが引き戻し、第三層の冷笑が足を掴む。この三重の抵抗に抗って変化を選ぶことは、簡単ではない。


新しい分野に挑むとき、無様になるしかない。未経験から業務に向き合えば、わからないことだらけで情けなくもなる。会議での的外れな発言、先輩が当たり前にやっていることに何時間もかかる。


しかしその居心地の悪さは、古い自分の免疫が反応している証拠だといえる。無様であるということは、少なくとも立ち上がって何かをしているということだと。
 

冒頭で「変わった実感がない」と書いた。しかし千葉さんの言葉を借りるなら、友人とノリが合わなくなった時点で破壊はもう始まっているのだろう。

ふとした瞬間に、「おれはこういう人間だったよな」という声が聞こえてくる。かつての自分が、内側から引き戻そうとしてくる。
 

それでも今、以前の自分がしなかった選択をし、見たことのない景色のなかにいる。それは面白い。しかし同時に、長く付き合ってきた自分が遠くに行ってしまうようで、寂しく、怖くもある。
 

中途半端な瓦解で終わるのか。壊しきって新しい自分を創ることができるのか。まだわからない。わからないが、壊れかけているこの状態こそが勉強している証拠なのだと思うことにする。


一生自分を壊せる立場でありたいと思う。
そしていつか、誰かの破壊と創造に手を添えられる人間になりたい
 

 


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[i] 千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版』文春文庫、2020年

 

[ii] 内閣府『年次経済財政報告(経済財政白書)』2018年、第2章第2節

https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je18/pdf/p02023.pdf

 

[iii] 厚生労働省『労働経済の分析 2018』第1章第2節

https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/18/dl/18-1-2-1_02.pdf?utm_source=chatgpt.com

 

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