PMI Consulting Co.,ltd.
scroll down ▼

2007.08.27

有名ブランドエコバッグの争奪戦にみる地球環境への対応意識

 最近のニュースショーを観ていると、環境問題のニュースが取り上げられない日はない。それほど旬ともいえるニュースネタになっている。参議院選挙の争点の一つに環境問題への対応への公約が含まれているし、環境変化による世界的な食物供給不足と通貨の弱体化による買い負けに代表される食糧不足懸念問題、食物の主輸入先である中国の食料汚染不安など、あと何年かすれば食料が安全保障上の主要問題として深刻になってくることは間違いない(食料が輸出国の戦略物資となり、日本に入ってこなくなったときに本当の危機に直面することになる。今はまだ買えるからよいが、今以上に円の価値がこのまま下落していくのはまずい状況といえる)。今は先進国国民の一人一人が、存亡の深刻な危機として環境問題に取り組まなければならない状況になっていることは明白だ。

 そんな中で、首都圏に台風4号が接近している週末に、高級ブランドのエコバックを買い求めて、人々が店頭に殺到し徹夜組まで出ているというニュースがあった。販売点数が少なかったため、前夜から並んだ全員に行き渡らず、店員の対応方法の問題もあり、大きなトラブルにも発展してしまった。さらに、台湾や欧州でも同様のエコバッグ争奪戦が繰り広げられ、日本特有の現象ではなかったことには驚かされた。

 メーカー側の意図は、エコバッグを広めることで、直接的には資源の節約(環境運動の一環)につながり、間接的には環境への配慮思考が高まるということを狙ったものだ。そしてその意識をより高めるために、世界のセレブを使ったメディア発信によって訴求しようとしたのだろうが、それに対して人(消費者)は別の方向に反応してしまった。やはり人はメーカーの思案どおりには動かず、物事の本質をみることが苦手な存在であることが浮き彫りになった現象と言っていい。

 セレブの使っているエコバッグ、本来であれば手が出ないブランドのバッグが安価に手に入るという感情もあったのだろう。しかし人気が高くなることを見越して、早々に入手してネットオークションで販売するという、要は儲かるからという理由でこの騒ぎに便乗した人も多かったということである。

 環境への配慮もなにもあったものではない。セレブの使っているエコバッグは、今では恥ずかしくて使いたくても使えなくなっているではないか。そのエコバックを持ち歩くことは、あの騒ぎに参加したことを世間に表明していることと同じなので、それは周りからみれば恥ずかしいことに映るだろう。なんのことはない、大騒ぎはしてみたが環境への貢献などは蚊帳の外で、依然としてビニール袋(レジ袋)を使うことになるのであれば、本末転倒でありメーカーの意図も雲散霧消というところだ。

 本当に環境に配慮するという意識があれば、自らの意思でコンビニやスーパーで売っているエコバッグを購入すればいい。なによりエコバッグ化というのは資源を使わないという面からすれば、理にかなっており大変に有効な環境貢献である。今の消費者レベルの環境への取り組みは、温室効果ガス排出抑止への貢献(電気の無駄使い防止、低燃費自動車など)とリサイクルへの協力というものが主だが、元をただせば一番の環境貢献は、資源を使わないことに他ならない。

 新しいモノを使うことは、新しいものを作るために必ずエネルギーが消費されるし、同時に温室効果ガスも排出される。またモノを新しく使うから、リサイクルしなくてはならない。ペットボトルがその良い例だ。ペットボトルを使うからリサイクルに協力しなくてはならないのだが、そもそもペットボトルを使わなければリサイクルしなくてすむのである。ペットボトルがリサイクル可能であることは周知の事実だ。環境を考える企業はペットボトル化を進めることで、環境へ配慮の姿勢を示していることになる。なによりペットボトルのコストは安いし、リターナルボトルとは違って企業が回収の義務を負わなくて済む。企業にとっても一石二鳥なのだ。

 しかしペットボトルを使用するということは、ペットボトルを製造しなくてはならず、それには主原料である原油精製原料を使用することになる。またペットボトルの回収にも資源を使用し、さらにリサイクルを行うことで資源を使用することになる。ちなみにペットボトルをリサイクルしても、再びペットボトルに生まれ変わることはない。別のプラスティック製品に生まれ変わるだけだ。つまりペットボトルは新しいものが延々とつくられており、そのために資源が使われ続けるのだ。

 では、ペットボトルをリターナルボトル化したらどうだろうか。回収に資源が必要なだけで、あとは資源を浪費する必要は無い(厳密にいえば、何度かリユースし劣化したものは再生産しなくてはならないが)。つまり、ペットボトルよりはるかに環境に貢献できるのである。缶やガラス瓶がそれにあたるが、缶は一度溶解して再生という側面があるので多くの温室効果ガスを排出する。洗浄と消毒で再使用可能なガラス瓶が適当だろう。しかしペットボトルをリターナル瓶化すると、商品は重くなるので消費者は嫌がるし、なによりメーカーが回収責任を負うために、それがコストに跳ね返ることになり販売価格は上がる。消費者は販売価格の上昇を許さないだろう。

 そこに環境への取り組みの温度差がでてくる。環境に貢献しなくてはならないことは分かっている。しかし価格の上昇は困るし、ガラス瓶になって重くなり不便になるのも困るというのがというのが本音のところだ。消費者は自分の生活が極端に不便になる、つまり自らの生活レベルが後退してしまうことには非協力的なのは間違いないし、メーカーもそれを知っているので、わざわざ消費者に嫌がられるリスクをとらない。

 それらの解決策として、コストの上昇面はリターナル化(資源をなるべく使わない配慮)には税制面で特例を設けるなど、政府がメーカーのコスト面でのフォローすることで解決できる。あとは一人一人の意識の問題、つまり環境のために不便さを受け入れることができるかにある。資源を使わないという意識をもち、何をしたら資源を使うことになるのかの本質をきちんと考えることが重要だ。そしてすべての人(消費者)が、今の生活が多少不便になっても環境に貢献しようとする意識を醸成できるかにかかっている。

 しかし極限の便利(軽薄短小)さを追求してきた国や企業、そしてその恩恵にほいほいと乗って、すっかりそれに慣れてしまった人(消費者)が、ちょっと不便なエコライフに向かう意識を醸成するには、相当なインパクトが必要だ。またエコ貢献による経済の後退も止むを得ないと割り切ることも必要だ(アメリカが京都議定書に非協力なのも経済の後退懸念があるからだ)。

 人(消費者)がブランドやセレブに弱いことは、エコバッグ争奪戦で証明されている。その弱さを逆手にとったメディア戦略で、国民のエコ意識、資源を使わない意識を醸成させることは可能かもしれない。AC(公共広告機構)が環境貢献を訴えるCMを流している。しかし危機を訴えるだけでは人は動かない。まだまだ身近には感じられない危機感のために、現在の生活レベルを落とすことを容認することは、便利さに浸かった人には難しいからである。エコはかっこいい、エコはインテリジェンスあふれる活動、エコはセレブの必須条件など、人(消費者)の意識をくすぐるような国家をあげてのメディア戦略も考えていく必要がある。

 資源を使わない意識、何をすると資源を使うことになるのか。そろそろ本気で環境に真に有効な取り組みを開始すべき時がきている。なんとなく地球がおかしいと誰もが認識しはじめている2007年は、その好機なのかもしれない。

マンデー

Recruit

採用情報

お客様と共に成長し続ける新しい仲間を求めています

Contact

お問い合わせ