PMI Consulting Co.,ltd.
scroll down ▼

2009.04.07

バラエティ番組の新しい見方のすすめ ~「笑い」の構造と効用の理解~

 2009年もあっという間に3か月が過ぎ、4月になってようやく気温も温かく過ごしやすい季節になった。この時期、私が非常に楽しみにしていることがある。それは「テレビ番組の改編」だ。3月まで続いていた番組が終わり、ニュース・情報、バラエティ系の番組は4月に改編する場合が多い。中でも今回、クイズ番組やお笑い・コメディ系のバラエティ番組の改編が多く、4月から新しく22番組が始まる。テレビ番組は本来発信者であるテレビ局の意向で制作されるが、バラエティ番組の視聴率が高いことを考えると、それだけ視聴者がバラエティ番組に「笑い」ことを求めていると考えられる。昨今の経済不況の影響で世の中が暗いムードを漂わせているが、先行きが不透明な社会情勢の中で人々は明るく華やかなでバラエティ番組に「笑い」を求めているのだろう。
 「笑い」は、人間同士が円滑にコミュニケーションをとり、良好な関係を構築・維持していくための有効なツールである。「笑い」によって場が明るく和やかになり、対立や衝突が解消され、よい人間関係が醸成される。この「笑い」の効果は、人と人との直接的なコミュニケーションの場において発揮されるものであるが、バラエティ番組が「笑い」を提供するものであれば、直接的ではないバラエティ番組と視聴者とのコミュニケーションの関係においても、「笑い」による同様のポジティブな影響があると考えてよいだろう。

 一方で、こうしたバラエティ番組は人々が「ものを考える」ことを放棄させてしまう面もある。これは、視聴者がバラエティ番組を通じて流れるコンテンツ(=情報)をありのままに受け取っている、つまり「考えないで番組を見ている」ということである。最近は、番組の中にテロップで笑うポイントを示したり、相槌となる笑いの音を入れるといった仕掛けにより笑いを誘うため、視聴者が笑うことを判断する必要もなくなっている。
 ただ、そもそもバラエティ番組自体が視聴者に「笑いを提供する」「楽しませる」ことを目的に作られており、視聴者に「考える」ことは求めていない。クイズ番組も、答えが提供されるだけに「視聴者が考える」ことは求めない。また、視聴者側もバラエティ番組に「考える」ことを求めておらず、「笑って楽しむため」に見ているに過ぎない。日常生活や仕事上の不満やストレスを抱えた視聴者がその解消のためにバラエティ番組を見るという場合もあるが、「考えて」根本的に不満を解消するのではなく、「考えないで」楽な手段を選ぶ。こうした心理的作用が働き、人は考えなくなる。こうした考えない状況がさらに、物事への無関心(例:国民の政治に対する無関心)や理解不足(例:コミュニケーションの齟齬、事実誤認)、配慮のない言動(例:政治家の失言)などを多く発生しているのである。
 いまだに社会的影響力の高いメディアであるテレビが、視聴率が取れるからといって、単純に面白がるだけで考える必要のないバラエティ番組ばかりの番組編成にしてしまうのは、「考えない人たち」をどんどん増やしてしまいかねない。今一度、バラエティ番組のあり方について、番組を提供するテレビ局も番組を見る視聴者も考え直す必要があるだろう。

 では、テレビ局と視聴者それぞれにどのような対応や改善が望まれるだろうか。まず、テレビ局にはバラエティ番組の内容再検討や、一日の番組全体の中での他ジャンルの割合を増やすことなどが考えられる。しかし、現状を考えるとこうした解決策は実現し難い。なぜなら、バラエティ番組は視聴率を稼ぐ重要なコンテンツであり、会社の存続を左右する「売れ筋商品」だからである。その売れ筋商品であるバラエティ番組をやめる決断はどのテレビ局もできないだろう。他ジャンルの割合を少し増やしたとしても、大幅な番組改編は望めない。
 そうすると、視聴者がバラエティ番組をどう受け止めるかにかかってくる。多くの批判が人々の「考えない」原因をテレビ局に追及しているが、実は視聴者にも問題があるのではないか。つまり、テレビ局だけに「考えない」責任を求めるのではなく、視聴者である我々がどうすべきか?を考えていくことが望ましいだろう。

 バラエティ番組の良さは、先述したように、人々の「笑い」を引き起こしてくれるという点である。それが一時的な気晴らし程度の効用であれ、多くの人々に受け入れられていることからもその存在価値はある。そこで、バラエティ番組をただ流して見るのではなく「笑い」を引き起こす基本構造を考えてみてはどうだろうか。これまでは、番組で流れる情報に対して特に考えることなく「笑い」が起こっていたであろう。ここでは「何も考えなかった」かもしれない。しかし、笑ったということは「何かを感じた」はずである。その感じたものが何か、そしてどうしてそのように感じたのか、といったことを少し「考えてみよう」というのが私の新しいバラエティ番組の見方としての提案である。実際に、お笑い番組での芸人のコントや漫才などを見て「こういう点が面白い」と客観的に分析する方もいるのではないだろうか。そう、人は「笑い」を感情的に理解するときもあれば、理性的に理解するときもあるのである。

 では、「笑い」を引き起こす基本構造はどのようなものか?それは2つの要素で構成されている。1つは「一つの言葉や状況に対して違った解釈の比較・差異」である。例えば古くから使われている「ダジャレ」は、同じ音や似た音に聞こえる複数の言葉に関係性を持たせ、それらの意味や解釈の違いによって笑いを生み出している。解釈の違いが大きければ大きいほど、大きな笑いを生み出すことが可能になる。「現実」と「シュール」、「ボケ」と「ツッコミ」なども、解釈の違いを大きく見せる手法である。
 2つ目の要素は「形式と間」である。コントや決め台詞およびその台詞を言うまでの一連の定型化された流れによるネタの場合、お決まりのパターンやリズムによる「形式と間」によって笑いが引き起こされる。ここで使われるネタの内容自体は一般的なものであり、現実世界の中でよく見聞きするものであるため特に面白いものでもない。しかし、日常的なある部分を切り出して「形式」の中に当てはめ、現実世界からネタの中の架空世界に移し替えることで「笑い」を引き起こす。また、ネタの中で独特の「間」を作ることによって独特の世界観を生み出し「笑い」を引き起こしている。現在、バラエティ番組で見られる漫才やコント、タレント同士の掛合いは、このような「解釈の違い」や「形式と間」、または両方の組み合わせによって「笑い」を生み出している。クイズ番組での見当違いの解答も、想定される正解に対する間違った解答との比較であり、正解と間違った解答との差異が大きく、そこにツッコミを入れるなどの笑いを引き起こす「形式」ができあがっているのである。
 こうした「笑い」が起こる構造は何もバラエティ番組に限ったことではない。古くからある狂言や落語、喜劇もこの構造に則って作られてきた。ただ、視聴率のためだけに低質なコンテンツと揶揄されがちなバラエティ番組だけが「人々が考えなくなる諸悪の根源」のような評価をされているだけなのである。「笑い」を引き起こす構造を知った上で今一度バラエティ番組を見てみると、番組の中で見られる様々な言動が起こる仕組みを理解することができる。それによって、例えば、これまで表面的に情報を受け取っていただけだったが、構造を理解するということを他の事象を対象として考えることもできるようになるだろう。また、バラエティ番組では新しい発想によるネタが豊富に披露される。ネタの評価は様々だろうが、ネタを生み出す発想法や想像力が自身の仕事や生活のヒントになるかもしれない。さらに、「笑い」の構造の理解は「ユーモア」の理解と不可分であるため、自身のユーモアセンスを磨くチャンスでもあるのだ。このように、バラエティ番組を見ることは、物事を考えなくなるという問題の解消につながる有効な手段であると私は考える。

 「笑い」には大きく2つの機能があると言われている。ひとつは「心身の調子を回復させる自然治癒機能」である。医学的には、大きな病気やけがをした人の中で、笑うことによって回復を早めたり難病を克服した例が発表されている。たとえそうではなくても、日常生活で仕事上でのストレスを笑うことによって発散でき、心身のバランスを保っている人は多くいるだろう。それは、個々人は医学的な理屈がわかっていなくても、自然と笑うことで体の調子を整えようとしている表れだといえる。もうひとつは「社会の中での親和作用」という機能である。人間は基本的には共同体の中で生きていく必要があり、共同体の中で形成される様々な人間関係を、笑うことで関係の構築、維持、修復しているのである。
 そう考えると、「笑い」を提供するバラエティ番組の社会的な存在意義は非常に大きい。バラエティ番組が直接経済不況を解消してくれるわけではないが、弱まった社会を回復に向かわせるサポート機能を持ち、かつバラエティ番組が社会全体の親和性を醸成する役割を担っていると考えることができよう。これまで、テレビ、およびバラエティ番組を批判してきた人たちもこのような再評価をしてみてはいかがだろうか。そして我々視聴者は、バラエティ番組の社会的意義やその機能、そしてバラエティ番組の中で「笑い」が起こる構造を理解し、「考えながら」番組を見てみようではないか。

フォレスター

Recruit

採用情報

お客様と共に成長し続ける新しい仲間を求めています

Contact

お問い合わせ