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アドルフの半生を見る

 時計の針は18時を過ぎていないが、茜色に染まっていた西の空にも帳が落ち始めていた。日が落ちるのが早くなったことに気付き、うだる暑さは残っているものの、夏は終わってしまったのだと実感した。

 日本には “七十二候(しちゅじゅうにこう)”と言われる72の季節がある。季節ごとの鳥や虫、植物、天候などの様子が72の時候の名前になっており、自然の変化を知ることができる。本稿を書いている季節は「玄鳥去(つばめさる)」という。渡り鳥であるツバメが春先に日本にやってきて、4月~6月ごろに卵を産む。そんな彼らが夏の終わりを知り、育った子供たちと南方の島国へと旅立つ季節が今頃らしい。

 ツバメが渡り鳥であると知らなかったことを恥じながらも、少し調べてみたところ、ツバメの寿命は長くても2年であり、身体が小さく外敵の多いツバメが、もう一度日本に帰ってこれる確率は10%程度だそうだ。今年の夏、ある道の駅で偶然見かけたツバメと雛達のことを想うと、夏の終わりと共に切なさが少しこみ上げてきた。

 

 ドイツにも、もう戻らないツバメがいる。「Me 262 シュヴァルベ」はドイツのメッサーシュミット社が開発し、第二次世界大戦末期にドイツ空軍で運用されたジェット戦闘機である。ドイツ語で「ツバメ」を意味する「シュヴァルベ (Schwalbe)」の愛称がつけられ、世界初の実戦配備および実戦を行ったジェット機として活躍した。

 前回の私の投稿でも触れたのだが、本稿ではこの戦闘機の開発だけでなく、大戦時下のドイツを主導したあの人物の半生を紐解きがら「アイデンティティ(自己同一性)」について考えてみたい。

 

 アドルフ・ヒトラー,(1889年4月20日 - 1945年4月30日)彼は自分の出自に関してこう語っている。「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ」と、自分の出自について詮索される事を非常に嫌っていたという。この言葉が表す通りヒトラーの出自には謎が多く複雑であった。

 そもそも、アドルフの父親アロイス・ヒトラーは、未婚女性の私生児として生まれ、アロイスの父親の存在について一切語られずに育った人物であった。また、アロイスの性に奔放な性格も相まってか、アドルフの母親のクララ・ヒトラーは3度目の結婚の相手であり、かつ、従妹の子という関係(詳しいことは割愛するが、姪の可能性も否定できないとされている)でもあった。

 加えて、アドルフは家父長的な態度を示す父親との衝突も多く、折檻も受けて育った。アドルフは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」と手記にも残している。

 発達心理学ではアイデンティティの獲得が上手くできなかった場合、対人的な関りへの不安を抱え、自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごすことが増える。また、熱狂的なイデオロギーに傾いてしまう事もあるという。

 事実、「兄には一族という意識がなかった」とアドルフの実の妹であるパウラが語るように、「自らが何者か」という問いを、自身の一族に見出せなったアドルフは、自らのアイデンティティを“ドイツ民族”に求めるようになった。このアドルフの民族主義への傾倒は、皆が知るように大戦中に凄惨な結果につながるだが、自分の出自が分からない、また、幼少期から実の父親との不仲・折檻を受けた体験が、彼のアイデンティティの形成に大きな影響を与えたのは想像に難くない。

 

 アドルフの排斥活動は人種のみにならず、芸術の分野にも至った。大戦中、アドルフは近代美術や前衛芸術を、道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害する「退廃芸術」と称して排斥を行った。彼が政治家になる前に画家を目指していたという史実はご存じの方も多いと思うが、なぜこのような排斥を行ったのであろうか。

 1900年、中等教育(中学校・高校)を学ぶ年頃になるとギムナジウム(大学予備課程)で学びたいと主張したアドルフに対して、父アロイスはリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した。自伝『我が闘争』によれば、アドルフは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはアドルフの言い分を認めなかった。結局、父の死後の1905年には試験や授業を受けなくなり、病気療養を理由に学校を退校、そこから芸術へ傾倒していく。

 18歳になり、芸術を学ぶことを決意したアドルフは、芸術の都ウィーンへ移住し、ウィーン美術アカデミーを受験するも失敗。受験に失敗し、アカデミーの学長に直談判した際には「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と評されたという。

 アカデミー受験の失敗後も、絵葉書売りで生計を立てていたアドルフであったが、画家としての芽が出ることは無く、政治家への転身を果たす。

 アドルフが受験した前年、ウィーン美術アカデミーに16歳で合格したエゴン・シーレは、後に前衛芸術で大成し、現代でも高い評価を受けている。アドルフは自分を否定したアカデミーが、シーレを受け入れられたことを後年まで恨んでおり、大戦中、ナチスの総統にまで上り詰めたアドルフは、彼らの作品を激しく糾弾した。

 発達心理学の権威であるエリクソンによれば、人生の発達の段階でアイデンティティを獲得するためには、青年期(12歳~18歳)を重要な期間と位置付けている。まさにこの時期、彼の学術・芸術での挫折が、アイデンティティの形成に影響を与え、晩年に自己の否定を受けた近代美術・前衛芸術を排斥するという形で現れたのであろう。

 

 アドルフだけでなく、人はアイデンティティ・自己の否定を受ける時、激しく抵抗を示す。そして、これは個人だけでない。第1次世界大戦後、多額の賠償金に苦しみ続けたドイツ国民がアドルフの演説に熱狂し、2度目の対戦に踏み切った時もしかり、自らが信じる民族、国家、同一性など、当たり前だと感じているアイデンティティを否定された時、自己のアイデンティティを守るため、相手のアイデンティティを認めまいと争いは生まれる。そして、アイデンティの否定が政治に利用されたとき、戦争の火種は生まれる。衛星国家に対する侵犯を理由に、ウクライナに侵攻したロシアもしかり、これらはいかなる戦争・紛争にも共通していることであろう。

 アドルフの半生を追うことで、アイデンティティの形成には幼少期から青年期という時期が重要であることは再認識できた。また、青年期以降も、一度自己内で形成されたアイデンティティを疑う、または内省することも重要なのであろう。それらを怠り、他者のアイデンティティを認めず、踏みにじれば、争いに発展する可能性は大いにある。

 

 このように書き下ろしている私自身「自分は何者か」と悩んでいる人間であるが、一つ私がアイデンティティを確認できる場所がある。それは銭湯である。私の生まれた台東区御徒町に燕湯(有形文化財)という銭湯がある。昔ながらの宮つくりの門をくぐり、お湯でほぐされ、湯上りに天井を見上げながら日本人であることを実感し、感謝する。自分は何者かを自覚するのは難しいかもしれないが、このように、アイデンティティを自覚するきっかけは、意外にも身の回り溢れているものかもしれない。アイデンティティに悩まれた際には、一度、燕湯を訪れてみてはいかがだろうか。

 

キルシェ・ブリューテ

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