2008.05.12
「思考の簡略化」から抜け出す未来
最近、ほぼ慢性化していた首から肩のコリと痛みからすっかり解放された。これまでに、対症療法的な治療には随分と時間とお金をかけてきたのだが、そのどれを取っても完治には至らなかったが、意外にも口腔外科に通って、顎関節症と噛みあわせなどの治療を施した結果、首から肩にかけての慢性的なコリと痛みが完治した。非常に喜ばしい事である一方で、何故間違った治療にあんなに時間とお金をかけてしまったのかという後悔の念も強く残った。通常、首から肩のコリを緩和しようと考えるとき、一般的には、整形外科、整体、マッサージ、鍼灸、パートナー・ストレッチ、あるいはウォーキングや水泳などの有酸素運動で解決を図ろうとする。自分もその類での解決を随分と試みたが、根治には至らなかった。整体士に「首から肩のコリ」を訴えれば、姿勢矯正と寝方、歩き方を指導され、彼らは整体に関する知識から逸脱した原因を探る事はなかった。実は、整形外科医も、鍼灸師にいたっても、その原因の探り方自体はそれぞれの経験知に基づく判断でしかなかったと言える。今あらためて考えると、彼らは私の症状を見て、過去に経験してきた最も多い症例に当てはめようとしていたように思えてならない。このような思考は、私たちが所属する組織の中でも頻繁に起きているのではないだろうか? 先日、ある会議に参加する機会があった。その会議の議長はその道のエキスパートで、実に経験も豊かであり、その組織の執行責任を担うポストに付いている。彼の直属の部下である、ゼネラルマネジャーと、その配下のチームリーダーが集まる、今期最初の会議であった。まずは、今期の当該組織の経営方針と目標が確認され、その方針に沿った活動と、目標達成に向けた成果を報告するという形で進行していく。時折、議長が報告内容に具体的な指示をしたり、対応策に対して自分自身の判断を下したりする。その指示・判断にチームリーダーは、「わかりました」と従うばかりで、驚く事に、最後まで誰ひとりとして議長の指示や判断に対して質問をなげかける者はいなかった。 思考の簡略化の問題は、判断ミスの原因となっている事にその問題の本質がある。つまり、判断ミスを誘発する思考プロセスをいかにして是正するかがその鍵を握っている。 ここで、このような思考プロセスの是正をするにあたって、是非とも認識しておきたい考え方にヒューリスティクスがある。ヒューリスティクスに関するメリットとデメリットを認識し、組織経営に活かすことで、組織の思考プロセスを適正化することが期待できる。ヒューリスティクスは、人間が不確かな状況でどのような推論過程を経て判断を下すのかということを研究した認知科学の成果である。言ってみれば、問題解決を行う際の思考の癖のようなものだ。ヒューリスティクスは3つのエラーとして捉えられている。 人間は生まれながらにヒューリスティクスに影響されている事を組織の経営者はほとんど自覚していないだろう。ミスをしない人間はいない。言いかえれば、人間はミスをおかす動物だ。このことを前提に考えられるのであれば、ミスを公のものとして自己分析できる組織を作る事は可能なはずだ。 個人的には、このような考え方を人の命を預かる医療分野で積極的に取り入れてもらいたいと願っている。冒頭で申し上げたように、私自身の首と肩のコリの問題も、1つの症状に対して、過去の経験や、自らの専門性に頼りすぎた判断(=思考の簡略化)に陥る事なく、より広い見地からその原因を捉えられるような診断が為されたならば、無駄な時間を過ごす事も無かったに違いない。1つの症状からも多種多様な原因が考えられるが、私自身も、過去の経験からその症状を緩和してくれる医療機関を考えるとき、思考を簡略化していたと言える。私たち生活者が、医療機関を利用する際に、思考の簡略化の罠に陥らないためにはどうしたらいいだろう。1つのアイデアとして、考えられる事は、これからは、インターネットを通じて、不特定多数の力を借りて問題解決を図れる時代だ。この問題を解決するために、医療機関と患者(症状に悩む者)とのクラウドソーシングがあってもいい。私たち生活者が、医療機関選定を誤らないために、1つの症状から考えられる治療法をサイト上に公にし、医療機関側も生活者がそのサイトを活用してくることを前提にして診断に臨む事で、お互いに「思考の簡略化」に陥らないメリットがあるのではないか。 アーリーバード
会議の出席者の様子から見て、議長の指示・判断の信憑性を疑っている者は見受けられなかった。つまり、議長の経験と実績に裏付けられた「専門性」と、彼の指示・判断に従えば結果が出やすいという過去からの「信頼性」が働いているのではないかと推察された。しかし、この会議に参画して私が感じた疑問は2つある。
1つは「ここにいるチームリーダー達は、この会議の手の抜き方を知っていたのではないか」という点と、もう1つは「議長の判断は、過去の豊富な経験に裏付けられていると思われるが、市場は完全に変化していることを前提にした場合、過去の経験に頼った判断が適正だとは言えないのではないか」という事である。ここにも、過去に経験してきた多くの事例に当てはめようとする思考の簡略化があるのではないか。
1つ目の疑問「ここにいるチームリーダー達は、この会議の手の抜き方を知っていたのではないか」について、チームリーダー達は、何を考えたのか?その様子から察するに、「議長の指示を守っていれば成功の確率は高いはずだ。ここで、質問したり、反論したりするよりも、言われたとおりに動いた方が結局は上手くいくし、会議も早く終わるだろうから、ここはYESと言っておけばいい」とでも思っているように感じた。これでは、今後活躍が期待される若手のリーダー達の思考力は退化する一方だ。
2つ目の疑問「議長の判断は、過去の豊富な経験に裏付けられていると思われるが、市場は完全に変化していることを前提にした場合、過去の経験に頼った判断が適正だとは言えないのではないか」については深刻だ。市場の前提条件が変わっているにも関わらず、過去の市場での経験値に基づいた判断を行っている。明らかに、当該組織の経営方針に反した言動である。ともすると、この会議は企業価値を毀損している可能性すらある。
しかし、企業が思考プロセスを是正することは容易ではない。具体的に言えば、ある戦略的意思決定が為され、その戦略が執行された結果が仮に失敗に終わった事を想像して欲しい。果たして責任者を筆頭に、何故その戦略が成果を生み出せずに失敗に終わったのか?という事について、責任者の誤った思考プロセスまで詳細に分析をするだろうか?それは通常の組織では考えにくい。しかし、最も組織で権威あるポジションにある者が、自分自身も過ちを犯す可能性があることを認めた上で、組織内の議論が成立したらどうだろうか。先の企業の会議であれば、議長自身が自分にも過ちの可能性があることを認め、ゼネラルマネジャーや、チームリーダーからの指摘を受け入れられる会議が運営される事が期待される。改善に困難は伴うであろうが、あり得ないことではない。
1つ目は「アンカリング・エラー」。これは、印象に残る直近の事象や情報に強い影響を受けてしまうことを表している。例えば、「野生のトラの生息数は8000頭以上か、それ以下か」と聞かれた後に、「では何頭だと思うか」と推定させると、人はどうしても8000頭に引きずられるといった具合だ。これが、3000頭になっても同様だ。
2つ目は「アベイラビリティ・エラー」。自分が過去に経験した事象の中でも、思い出しやすい事象を目の前の事例に当てはめてしまうものである。たとえば、私が首と肩のコリで整体治療を受けると、何かスポーツをしているかなどと聞いて、そのスポーツをする人に多かった症例を当てはめようとてしまう場合などがそれにあたる。
最後は「アトリビューション・エラー」。これは、1つのステレオタイプに頼った判断で、医師などが、原因不明の症状に対して更年期障害やストレスを理由にする場合である。
これらのすべては、思考の簡略化の罠である。
思考の簡略化は、組織経営に誤った判断を生み出す可能性が極めて高いと言える。特に、ここ数年の企業が引き起こした食品偽装事件や、防衛省の収賄事件についても、何らかの思考の簡略化が働いていたのではないか。では、その事件・事故を起こした組織は、自らの意思決定を公式に再検討し、それをステークホルダーに報告した事実はあったであろうか?少なくとも意思決定に関するプロセスまでを詳らかにしたケースは記憶にない。
思考の簡略化の罠にはまらないようにする先にこそ、新しい未来がある。