2025.09.29
ビジネス界隈に「戦力回復」を
自衛隊に「戦力回復」という言葉があるのをご存じでしょうか?自衛隊でいう「戦力」といえば、装備している武器の火力や打撃力を思い浮かべる方がほとんどはないかと思いますが、ここでの「戦力」とは、隊員の健康やマインドといった正にメンタルヘルス面に対する言葉です。
自衛隊のイラク派遣(2003年12月〜2009年2月)は、イラク戦争の初期に行われた日本の自衛隊の重要な国際的任務であり、その主な目的はイラクの国家再建を支援することでした。この派遣は「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(イラク特措法)に基づき実施され、主に人道復興と安全確保を柱となる活動を行いました。もちろん憲法9条があるので武器の使用を前提とした戦闘地域への派遣ではなく、その周辺を警護するような任務でした。しかし実際には攻撃が加えられたこともあり、隊員2名の死亡者をだしてしまいました。戦闘地域からは外れた宿営地であっても、近隣からのロケット弾や迫撃砲がいつ撃ち込まれるかわからない状態であれば、隊員のストレスは極限だったことでしょう。そのため、自衛隊の宿営地には無料のゲームコーナー、日本との衛星電話、酒(ノンアル)、映画室やゴルフ練習場まで設置されていたそうです。
これらの設備がどれだけ隊員のストレス緩和に役立ったかは想像に難くありません。なお、当時の隊員の言葉で印象的だったのは、イラク派遣できつかったのは、命の危険に晒されていることよりも、娯楽がなくなること、食事の質が落ちてしまうことだったそうです。娯楽や食事は、仕事の間の息抜きだと思われがちですが、時に仕事以上の存在価値を放っているのです。
戦時下の諸外国への派遣経験が多い米軍ではこれらの設備はもっと充実しています。米兵やその家族が休暇を楽しむための宿泊施設や数々の娯楽場(ゴルフコース,テニスコート,フィットネスジムやプール,野球場,ボウリング場,乗馬やクレー射撃場,キャンプ場など)も設置されています。米軍は太平洋戦争時代にすでに福利厚生の重要性を知り、当時の最前線であり激戦地の一つであるガダルカナル島では、激しい戦闘が続いている中でもテニスコートを設営したり、アイスクリーム製造機を設置して兵士に配ったりしていました。実際に戦闘地域でテニスをしている米兵をみた日本兵は驚愕したそうです。日本軍は常に臨戦状態で、いつでも戦闘可能な状態を強いられていたので、「遊んでいる」米兵を見てその意味を理解することはできなかったでしょう。
このように常に命の危険に晒される軍関係では、兵士のマインドケアを特に重要視しています。有事の際や戦闘状態になった際に、兵士が能力を発揮できる状態を作り上げておく必要があるからです。このことを「戦力回復」といいます。自衛隊の総合演習では、例えば朝5時に起床して準備し、作戦行動に入るという命令だった場合、朝5時までしっかりと休養することを求められます。1時間前の4時に起床して演習の準備をするようなことは求められることがありません。むしろ叱られてしまいます。5時に起床するという命令には、5時まで十分に睡眠をとって体を休ませ、起床後に従来通りのパフォーマンスを発揮できるようにすることを求めているからです。
翻ってビジネスの世界ではこのような「戦力回復」という概念は成立するのでしょうか。特に昭和のビジネスマンは、成果を上げるために馬車馬のように働くという考えがありました。休むことは悪だ、上司が帰宅するまで部下は帰ることができないなども、ごく普通の考え方として浸透していました。そのような考えはとっくの昔に捨てられましたが、仕事が期日まで終わらなければ残業してでも終わらせることが当たり前、という考えは令和の現在も色濃く残っているはずです。
一方で、令和の時代には昭和的な価値観や仕事観はナンセンスだとされ、社畜という言葉に代表されるように、仕事最優先の仕事人は否定されはじめています。
しかし「戦力回復」という考えはまだまだ取り上げられることはありません。軍事関係では何十年も前から当たり前のように浸透している「戦力回復」という考えを取り入れている企業を聞いたことがありません。まだまだ仕事に対する「休み、娯楽」という概念が、仕事とそれ以外というカテゴリーに分類され、仕事以外は遊びなのだという考えが蔓延っているのかもしれません。1か月以上の長期休暇をとることの難しさや、男性の育児休暇の取得率が低いことなどもその現れといえるでしょう。
よく欧米のビジネスマンの働き方として、長期バカンスを取り上げられることがあります。1か月以上の休暇をとって自分(家族を含め)の時間を大切にします。1か月以上も職場を空けてしまうことは、日本では考えられにくい行動でしょう。しかし欧米の企業では当たり前にように成立し、実際の企業業績やGDP、労働生産性などは日本よりも高水準である場合もあります。休みも取らずに馬車馬のように働くよりも、心身ともにリフレッシュされた状態を作り上げることができれば、少ない労働時間でも同等かそれ以上の効果を出すことができるということを、欧米では百年近く前から証明していたことになります。
「戦力回復」を実現するには、企業が福利厚生の仕組みや環境を整え、それを従業員が活用することが欠かせません。整えられた環境の中で、従業員は日常の疲れを翌日までに癒し、さらに年に一度の長期休暇によって家族との時間やリフレッシュを確保します。こうした企業と従業員の双方の理解の基に「戦力回復」は根付いていきます。
しかし、日本ではまだまだ長期休暇の取得推進や、過剰ともいえる福利厚生設備を用意する企業は稀でしょう。まだまだ従業員の「戦力回復」に真剣に取り組む企業が出てきません。逆に福利厚生はコストと考えて、徐々に削減されていく傾向のほうが強いようです。その根底には、休みは怠けることと同義ととらえ、長期休暇の取得は取得した従業員の能力の減退や長期休養明けの職場復帰に時間がかかるなど、あまりよいことと考えない風潮もありそうです。なにより人の本質を理解しないリーダーが部下に求める「マジメさ」「勤勉さ」が組織のメンバーを社畜化させ、疲労、疲弊させることにつながってしまいます。
完全に上意下達の指揮命令系統で、部下の兵員に対して生命に関わる非情な命令を下すことさえできる軍事組織のほうが、兵員のマインドやメンタルのことを重く考え、少なくとも通常であれば命の危険にさらされることは無いビジネスの世界では、軍事組織ほど重要なことと考えないという、皮肉な状態になっています。
すくなくとも欧米では、軍組織でもビジネス組織であっても、マインドやメンタルを同じような重要性で考えられていることがわかります。
日本に欧米のような「戦力回復」を支援するような仕組みが導入されるにはまだまだ時間がかかるでしょう。人手不足がその傾向に拍車をかけています。人的資本投資が投資家から注目され企業の評価指標の一つになっている現代だからこそ、従業員の状態を適切に保つための仕組みや設備を充実させ、その結果として高度な成長につなげているような企業の出現を待ちたいと思います。
マンデー