2025.10.27
軽井沢移住のススメ
「軽井沢移住のススメ」と題して筆を執るのは、実のところ、いささか落ち着かぬ仕事である。というのも、私はまだ軽井沢に身を移していないのである。検討中、という便利な言葉の背後に身を置き、想像の薪をせっせと割っているだけなのだ。しかるに薦めるとは何事かと。だが、人は事実によってのみ欺かれる。住んでいないという事実を以て、ものを見る眼を鈍らせるのも、また別の欺きである。
軽井沢を語るとき、我々はすぐに数値に頼る。標高何メートル、夏の平均気温は何度、東京から新幹線で何分。数は正確である。しかし暮らしの正確さは、別の所に宿る。朝の霧が庭の針葉樹から滴を落とす音、午後の雷が山の向こうに去る気配、夜の闇が街灯の円錐をまっすぐ切り取る影。これらは数では表れないが、身体の記憶にはよく効く。移住とは、それらの記憶に生活を委ねてみる試みなのである。
旅行者の眼は、見たいものだけを見抜く巧妙な器械である。週末の別荘体験は、たしかに世界を美化する。だが定住者の眼は、毎朝の生ゴミに下される判決のように、容赦がない。水道管の凍結、薪の湿り気、蜂の往来、電車の間隔、スーパーまでの距離。これら雑事の合奏こそ、住むという行為の音楽だ。私はまだ客席で拍手している観客にすぎないが、舞台に上がるなら、一人の奏者としての覚悟が要る。
それでもなお、私は軽井沢を勧めたい。なぜか。呼吸の速度と思考の速度がちょうどよく噛み合っているからである。都会では思考が呼吸を追い越してしまい、すぐに息切れを起こす。ここでは逆だ。時計は同じ速さで回るが、日なたの移ろいが時間を測る主役に戻る。リモート会議の最中、窓の向こうを横切る鳥影に話が中断されることもあるだろう。失敬な鳥だが、彼らの割り込みは、議題よりもまっとうな現実感を連れて来る。この一瞬で、人は生活を取り戻す。
便利さは思想ではないが、不便さはしばしば教育になる。薪を割ること、雪を掻くこと、湿った靴を黙って干すこと。これらは立派な哲学書だ。ページを繰るのに腕力が要る分、読了すれば、たいていの抽象論より説得力がある。軽井沢の冬は真面目で、冗談が通じないだろう。ゆえに、住む者の嘘も通じにくい。私はいま、想像の薪で暖を取ろうとするが、想像は湯気も煙も出さない。この素朴な真理が、なぜか心地よい。
移住の動機は、たいていみっともない。都会への怨み、健康への不安、友人への見栄。どれも否定する理由はない。動機の純度を気にするのは詩的な病である。大切なのは、住み始めてから恥をかけるかどうかだ。雪かきの順番を間違え、挨拶の声が小さく、自治会の連絡網に返信を忘れる。そういう小さな失敗が、風土に馴染むための糧になる。恥を恐れる者は、いつまでもお客様にすぎない。
「ススメ」と題した以上、実用の算術にも触れねばなるまい。家賃や暖房費の見積もりは、情緒より厳格だ。だが計算に一項、見落としてはならぬ値がある。朝、霜柱を踏んだ一歩の値(音)である。それは市場に出ない。かわりに、カレンダーに「冬季・毎朝三十分の雪かき」と書き込んでみるとよい。すると、体が先に答えを出す。億劫さが勝てば、まだ時期ではない。笑いながら長靴を探し始めれば、移住しても良い頃合いだ。
ここまで書いて、私はやはり移住の素人にすぎないのだと認める。だから、私の勧めは背中を押す力を持たない。むしろ足裏の土を思い出させるだけの、乾いた言葉である。試みに、週末に早起きして、駅前で熱いコーヒーを買い、路地を十分ほど歩いてみるといい。じめじめとした小雨の日もあれば、終日、低い雲に覆われる日もある。晴天だけを愛する者には、この町はいつまでも観光地だ。曇天を気に入り始めたら、その時こそ、あなたは住む準備ができている。迷いは悪徳ではない。迷いの精度を上げること、これが移住への一歩目である。
おさかな