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カネタタキにせかされて

 この夏、何かとお世話になっていた御仁が鬼籍に入った。享年八十二歳だった。葬儀から二週間ばかり過ぎた頃、生前をよく知る者が集まって故人を偲んだ。その席で「愉快な人だったねえ」と誰かが呟いた。「実に愉快なやつだったよ」と言葉を繋ぐ者がいた。“愉快な人”、生前の笑顔を想うと、他の言葉が見つからなかった。

 似た経験は少なくない。通夜の席、故人に深く関わった者どうしでその人の生前を振り返ると、不思議と研ぎ澄まされた人物像に行き当たる。見解の違い、というものがない。

 ある故人は「いつも背筋のしゃんとされた人でね」と、まるで申し合わせたようだった。ある故人は「いつもおしゃれにされてたよね」と、みなの語らう言葉がひとつの表象を浮かび上がらせていた。またある故人は「本当にやんちゃでね」「そうそう」と、暖かい苦笑を集めていた。人は死ぬと精神の輪郭を鮮明にするようだ。

 現に生きている人はどうだろうか。様々な顔が浮かび上がるが、どうにも定まらない。言葉を交わす度に変わりもする。若い人ほどその傾向は強くなる。精神の輪郭が定まってくるという意味で、老化とは個性化なのかもしれない。

 そう言えば、六十五歳を過ぎた老年期にも発達のための課題はあって、自己統合を成し遂げられるか、絶望に終わるのか、なのだそうだ。自己統合とは、自分が想像していた人生と違った今を過ごしていても、大きな時間の流れのなかで生きてきた意味を見い出せることを言うらしい。見出した意味は自身の姿勢にも干渉するのだろうか。

 自分の人生を振り返ってみても想像もしなかったことしか起きていない。が、はたして生きてきた意味を見い出せているのかと問うてみると、はなはだ心もとない。そうして急に不安になった心には、余人がほとんど無意識に過ごしてしまう日々が、荒涼としたひろがりと感じられてくる。そこで、人は長生きになったのだし、まあそのうちどうにかなるだろうと結論して、他人の境涯を遠目に眺めるのんきな立場にひとまず気持ちを置き直してみる。しかしそう結論してみると、今度は、言いようのない漂泊の念に取り憑かれる。生まれる前の遠い過去から今の自分に繋がっているであろうあらゆるものから切り離されて行くようで、先祖や親に対して、どこか後ろめたくもなってくる。

 よくよく考えてみると、自分という存在は、気が遠くなるほどの古から逆三角形に集められたなにがしかの結節点であり、そのなにがしかを先にひろげて行く分岐点でもある。どうやら、そのなにがしかを見い出して、自己統合なるものを果たさなければ、安らかに旅立つことも叶わぬようだ。歳を重ねるということは、そのための準備だと言えまいか。

 そこで自分の葬儀を想像する。口にしてもらいたい言葉を探してもみる。どうにも言葉が定まらない。どちらかと言えば残念な言葉が多い気もするし、あれこれあって落ち着かない。まだまだ迷いのなかにあるらしい。とすれば、私はまだ老化が足りないのかもしれない。いささか不自由さを増してきた体だが、もう少しがんばれそうな気もしてくる。だが、時間は年々加速してもいる。もし10年前の自分に会えたなら、そろそろ支度にとりかかったほうがよいぞ、と言ってやろう。老境に踏み込んでじたばたするのはみっともないと。

 ふと窓の外を見ると、あれほど燃え盛るように葉を茂らせていた木々も、今はすっかり疲れ果てて、うなだれているようにも見えるではないか。どこかでカネタタキが、せかすように鳴いていた。

 

方丈の庵

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